大阪障害者センター 壁ニュース

やまゆり園事件、判決が確定!~JDが緊急声明を配信!~

「壁ニュース」テキスト版 2020/04/01

やまゆり園事件、判決が確定!
~JDが緊急声明を配信!~

 やまゆり園事件(県立知的障害者施設「津久井やまゆり園」(相模原市緑区)で2016年、入所者ら45人が殺傷された事件)で、殺人などの罪に問われた元職員植松聖被告(30)に対する1審・横浜地裁の死刑判決が31日、確定しました。弁護人が判決を不服として27日に控訴したが、控訴期限の30日に被告自身が取り下げたためです。

 当該裁判では、この事件の背景等を問うことが多くの関係者から期待されていましたが、被告は、一貫して、「意思疎通ができない重度障害者は周囲を不幸にする不要な存在」「自分が殺害すれば不幸が減る」「生産性のない命には価値がない」とする主張を一切変えることなく、被告の差別思想がどのように形作られたのか、社会の何が被告に影響を与えたのか、肝心の惨事の深層は解き明かされず、責任能力の有無を最大の争点としての判決となっています。また、被告は控訴について、「死刑に値する罪とは思わないが、控訴しない考えに変わりない」と語り、弁護人が控訴しても自身で取り下げる意向を示していました。

 今回のこうした判決に対して、「やまゆり園事件は形を変えてまた起こる」とする当事者の不安や家族の不安は、決して当該事件の決着がつく内容になっていない点にも熟知たる思いが残るものとなりました。

 ただこの事件後、入所施設の在り方や、そこでの支援をめぐって、様々な検証も進められていますが、いくつかの団体からは、声明等が出されていますのでご紹介します。

【津久井やまゆり園事件、横浜地裁判決に寄せて(談話)】
 神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で19⼈の障害者が殺害された事件について、横浜地⽅裁判所において植松聖被告に死刑の判決が⾔い渡されました。
 判決の是⾮について会として評価することはできません。しかし、報道等を⾒る限り被告が公判を通して⾃ら犯した罪に真に向きあっていたとは⾔いがたく、「障害者は⽣きる価値がない」といった障害者の尊厳を踏みにじるような考えを改めることすらしなかったことに、深い憤りを感じています。亡くなった⽅々やそのご遺族、刃に傷つけられ⼼に深い傷を負ったたくさんの⽅々のことを思うと、やりきれない思いは今も募ります。
 同時に、私たちはこの事件が投げかけていることを深く考えなければならないとも感じています。
⼀つは、被告が事件を起こした背景です。
 報道等によると、被告が凶⾏に及んだ背景について、⼤⿇の影響を主張する弁護側と津久井やまゆり園の職場環境の影響を主張する検察側で意⾒が分かれました。その中で、被告⾃⾝の証⾔等から同園での不当な⾝体拘束など不適切な⽀援の実態が浮かび上がってきました。神奈川県が設置した津久井やまゆり園利⽤者⽀援検証委員会による検証でも証⾔と符号する事実が明らかになり、県も同園で⾏われていた⾝体拘束は虐待の疑いが濃いことを認めています。暴⼒や⾝体拘束を正当化する職場環境がどのような影響を被告に与えたのかは、正確にはわかりません。しかし、これまでに発⽣した障害者施設における深刻な虐待事件の背景などとも合わせて考えると、被告⾃⾝が職場で⽬にし、体験してきたことが歪んだ思想の形成に影響を及ぼしたとはいえないでしょうか。
 障害者の⼈としての尊厳や権利擁護を⼤事にしているか、それをすべての職員が理解し
ているか、多くの⽀援が必要な⼈も受け⽌めることができる体制ができているか、虐待や不適切⽀援を正当化していないか。⼆度とこうした事件を起こさないために、障害者を⽀援するすべての事業者や職員には、改めて⾃らを振り返ってほしいと思います。
もう⼀つは、社会のあり⽅です。
 事件発⽣時、被告の犯⾏や考えを肯定し、あるいは賛同して、⼈の価値を⽣産性などと関係づけて障害者の命を軽んじるような⾔葉があふれました。そうした⾔葉に私たちは、悲しみ、憤り、恐怖したことを思い出します。そして、これまで私たち⾃⾝が社会に働きかけてきたことは何だったのかと無⼒感に苛まれました。あれから4年。社会は変わったでしょうか。残念ながら、障害者に注がれる社会のまなざしはあまり変わっていないように感じます。
 事件発⽣直後から、被害に遭われた⽅々のお名前が匿名であったことに私たちは疑問を投げかけてきました。 もちろん、プライバシーをまもりたいという気持ちは尊重されるべきであり、それぞれの意思に反して実名を公表すべきとは考えません。しかし、「障害があること」を理由に⼀律に匿名とした当時の警察の対応には、障害を否定的に⾒る姿勢を⾊濃く感じました。
 被害に遭った⼀⼈ひとりの⼈は、知的障害者という「記号」ではなく、他の⼈たちと同様に⽇々を⼀⽣懸命に⽣きてきた⼈間です。事件後の報道や公判の中で、実名を出して思いを語られたご遺族の⾔葉は、多くの⼈たちの⼼を打ちました。被告のような優⽣的な考え⽅、障害者が⽣きることの価値を否定する考え⽅を社会からなくす道のりは⻑く困難なものですが、私たちはあきらめません。⼀⼈ひとりの知的障害のある⼈が懸命に⽣きる姿を、彼・彼⼥たちを愛し、慈しんできた家族の思いを、伝えていかなければならない。障害の有無に関わらず、どんな⼈も、お互いを尊重して⾃分らしく当たり前に⽣きていける共⽣社会をつくるために、私たちはそう考えます。

2020年3⽉17⽇
全国⼿をつなぐ育成会連合会 会⻑ 久保 厚⼦

【この事件を忘れ去り 風化させてはならない
~相模原障害者施設殺傷事件の判決 は本質に迫っていない~】
 きょうされん常任理事会

 本日午後 、2016年7月26日に起きた相模原障害者施設殺傷事件の犯人・植松聖被告 30)の死刑判決が横浜地裁で 言い渡された 。 判決において事件の本質に迫ることがなかったのは、きわめて残念であったと言わざるを得ない。このまま判決が確定すれば、「重度障害者は不幸しか作らない」「意思疎通できない障害者は安楽死させるべきだ」という植松被告の主張と、彼の名前しか残らないのではないか。
 本件に係る裁判員裁判では、刑事訴訟法に基づく公判前整理手続により、 被告の刑事責
任能力が争点とされたが、被害者の家族や裁判を見守る多くの障害のある当事者と関係者
からは 、 量刑の内容と同時に 、事件の本質や真相がどこまで解明されるのかに焦点が注がれた。
 なぜなら、ひとりの青年を、障害のある多くの尊い命を奪うほどに凶悪な罪人にしてしまった 根本的な原因や本質的な背景は 何かを明らかにしなければ、また 同様な事件の再発
が危惧されるからである。 しかし、今回の判決は、こうした事件の本質から目を背けた。
 わが国の史上最悪とも言えるこの残虐な事件が、障害者施設という現場で起きたことや、
発生から今日まで、犠牲となった19名の障害のある入所者をはじめ、45名の死傷者のほとんどが匿名とされたことを想うとき、 これで 本事件をすべて終わりにしてこのまま風化させてはならない 。
なお、被告本人はこれまで、「控訴をしない」と上訴権を行使しないことを表明しているが、 申立期間に控訴しなければ、近日中に刑が確定し裁判自体は終了となる。
 わたしたちは、二度と同様な事件を再発させないために、仮に判決が確定したとして も、
事件を風化させずに、引き続きこの事件の本質解明に向けての分析・研究・学習・討議を
内外に呼びかけるものである。

2020年3月16日

【津久井やまゆり園裁判員裁判の終結にあたって】
認定NPO法人日本障害者協議会(JDD
代表 藤井 克徳

 昨日をもって 植松聖犯人の刑が確定し、 「やまゆり園」事件の裁判員裁判は幕を閉じた。 私たちは釈然としない。それは、真相が何一つ解明されなかったからである。今の時点で私たち自身に、そして社会に向かって強く言いたいことは、「事件を忘れない」である。
 2016年7月26日未明、元施設職員が、就寝中の障害のある利用者を襲った 。19人の利用者が殺害され、26人の利用者と職員が傷つけられた。「 障害者は不幸をつくることしかできない」という差別と偏見で歪んだ被告の考えは 、 裁判中も一貫して変わらなかった。
 私たちは、 裁判の審理を固唾をのんで見守った。 事件の背景の 解明を期待したのである。 被告が なぜ、どのような経過で、障害のある人への差別、偏見、殺意をいだくことになったのか 。どのような人生を送ってきたのか 。 実行に移す強い動機は何だったのか 。入所施設である津久井やまゆり園での勤務経験が影響していなかったのか 。 措置入院に問題はなかったのか、など 。しかし、 何一つ明らかにされることはなかった。
二度とこのような殺傷事件を起こさないためにも、障害者への差別や偏見をなくしていくためにも、 それらを徹底的に解明することで 、多くの人たちが私たちの 社会のあり方を考える 大切な機会になったはずである。それこそが、失われたいのちに対する精一杯の報いだったはずだ 。しかし、実際には裁判は、被告の責任能力を問うことにのみ終始した。
 また、裁判では被害者が1人を除いて記号で呼ばれた。記号での裁判の背景には 、重 い障害のある人や家族が置かれた現代社会での厳しい状況があることは間違いない。しかし、記号で呼ばれた裁判は、いのちを奪われた人たちの人格や人生が否定されているようにも思え、残念でならない。
「障害者は不幸をつくることしかできない 」「生産性のない人は生きる価値がない 」 という思想は、 被告一人だけのものではない。 SNSなどの反応をみると、この社会に根深くはびこっていることを危惧する。私たちは、社会のそこかしこに潜む差別や偏見と対峙し、自身とも向き合っていかなければならない。
 何より障害当事者が、障害を理由とした我慢から、障害を理由としたあきらめから、解き放たれなければならない。家族も同様である。解き放たれた向こうに、障害者にとっての真の平等が、そして誰もが住みやすい社会が待っているに違いない。
 くり返し述べる。「裁判員裁判は終わったが、真相は闇の中」と。そして、「忘れない」とも。
 私たちなりに、これからも事件と向き合っていきたい。立法府や政府に対しても真相の解明を迫りたい。
 障害者権利条約は、性別、年齢、人種などと同様に、機能障害も人間の権利と尊厳を損ねるものではないと謳っている。 引き続き、犠牲者の無念さを胸に、障害者権利条約を高々と掲げ、だれも排除しないインクルーシブ社会の実現に向けて尽力する所存である。